生誕150年「横山大観」展 京都国立近代美術館に行って来ました。

明治から昭和を生きた近代日本画の巨匠、横山大観(1868~1958)の没後60年の記念回顧展です。

 

大観は明治元年生まれ。西洋から様々なものが押し寄せた時代に、伝統的な技法を継承しながら西洋画に負けない新しい日本画を目指し、新たな技法や主題に挑み、数々の大作を生み出しました。(HPより)

今迄も大観の展覧会は何度も見ましたが、今回の展覧会は大観の意外な側面、例えば「線を描くのが下手」とか「伝統的な日本画からは許されない手法を使った」とか、「奇妙奇天烈なテーマ」だとかに注目した展覧会だと言えるかもですね。

 

でも私はやっぱり明治時代、西洋から押し寄せて来た洋画などに負けない「新しい日本画」を創り出そうとした大観に拍手!です。その結果たとえ奇妙奇天烈であっても、遠近法が間違っていても、大観の絵は良いなって思いました。もちろん戦争に加担した時期は違和感がありましたが、日本中が戦争加担者だったことを思えば「良いことをした」と思われた時代だったのでしょう。

 

いつものように私が気になった作品、酔いしれた作品などをご紹介したいと思います。

第1章 明治時代(明治元年生まれの大観の若き日の作品)

新しい日本画を開拓していく大観、奇想天外な手法や散々こき下ろされた朦朧体(輪郭線を描かない)などは、これまでの日本画では描かれなかった大気を描こうとしたからではないでしょうか。絵は全然売れなく、妻子は生活困窮に陥りました。そのせいばかりではないと思いますが次々と肉親を亡くしました。

 

★《屈原明治31年(1898)厳島神社蔵 縦132.7cm×横289.7cm(大観30歳の時の作品)

f:id:akikasugai:20180714151625j:plain屈原は中国楚の高士。同僚のねたみで讒言にあい左遷されました。「懐沙賦(かいさのふ)」(志の潔白を訴える)を作って入水自殺をして果てました。この大作は大観の師である岡倉天心が怪文書で陥れられ、東京美術学校長から追い出された時、屈原に仮託して描いたそうです。私の一番好きな作品です。高校時代、国語の授業でこの詩の原文(部分)を読みました。それ以来屈原のことが記憶に残り、この作品が心に響いたのです。伝統的な日本画にはない平面的な「色没骨」を草むらに使っています。右下の草むらの陰に毒をもった鳥、「チン」がうずくまり、上の方に小心者の象徴「燕雀」が飛んでいます。もちろんこれらは天心を陥れた大村西崖と福地復一のことでしょう。

★《白衣観音》明治41年(1910)個人蔵 縦約140cm×横約113cm(大観40歳)

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初公開 105年間行方不明だった幻の作品 周囲から誹謗されていた「朦朧体」(輪郭を描かない没線表現)から脱する新たな手法を模索していた過程が分かる貴重な作品とのこと。ベールの透明感や装飾品のきらめきを精密に描写しているところが朦朧体(線抜きの色彩画)から脱却しているところだそうです。インドの風俗、白い衣をまとった観音が水辺の岩場に腰かけて足を組んでいる。大観は丸顔で目が大きく、唇をきりりと結んでいるのが好みの女性像だそうです。

★《山路》(部分)明治44年(1911永青文庫蔵 (大観43歳)

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奇想天外の手法・厚塗り。明治時代では珍しい砂絵の具(人造の絵の具)の厚塗りは大観の新たな試み。西洋絵画、油絵の影響でしょう。それは日本画では使われない洋画のタッチなのです。秋風の葉の音が聞こえてくるような迫力がある作品。目に見えないものを描こうとしています。

第2章 大正時代(大観が認められるようになった時代)

大正3年岡倉天心亡き後、休眠状態になっていた日本美術院を再興。大和絵水墨画に西洋的な写実表現を取り入れ次々と作品を発表しました。「東洋の伝統に新しい感覚を吹き込む実力者」といった高評価が定着し、生活も安定しました。

★《柿紅葉》大正9年(1920)永青文庫蔵(大観52歳)

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左隻 薄いピンク色の背景には驚きました。艶やかな柿の実。やまと絵風?琳派風?

とにかくハッとするほど美しい絵でした。

★《生生流転(せいせいるてん)》 1923(大正12)年 東京国立近代美術館蔵(大観55歳)重要文化財(40メートルに及ぶ日本一長い画巻を3回にわけて巻き替え展示)

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この画巻には水の一生の物語が描かれています。それと同時に朝から夜にかけての一日の時間の流れ、春から冬の季節の流れも読み取ることが出来ます。

スタートは山間に湧く雲。雲が一粒の滴となり、地に落ちて流れはじめる。川は周囲の山々や動物、人々の生活を潤しながら次第に川幅を増し、やがて海へと流れ込む。荒れ狂う海には龍が躍り、水はついに雲となって天へと昇る。そして物語は振り出しに戻ります。ここには大観の水墨技法のすべてが注ぎ込まれていると言われています。

展覧会初日に関東大震災に出会いました。よくぞ無事に残ってくれました。(拍手)

 

第3章 昭和時代(大観が巨匠と呼ばれるようになった時代)

自在な画風と深い精神性をそなえた数々の大作を次々と発表し、巨匠と呼ばれるようになりました。

★《夜桜》六曲一双 昭和4年(1929)大倉集古館蔵(61歳)

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燃え盛る篝火に夜桜が浮かびあがり、夢幻の世界へといざないます。まさに絢爛豪華。色没骨は琳派の技法が使われているとのこと。ローマ日本美術展(1930年)に出品された大観渾身の作。

 ★《紅葉》六曲一双 昭和6年(1931)足立美術館蔵(大観63歳)

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鮮明な色にプラチナ箔が輝く絢爛豪華な作品。力強い造形によって日本画材(例えば群青など高価な絵具)の美しさを最大限に引き出しています。

 

★《霊峰飛鶴》昭和28年(1953)横山大観記念館蔵(85歳)

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精神の象徴としての富士。柔らかい白い雪の中を白い鶴が飛んでいるさまは神々しい絵巻のようです。「富士と言えば大観、大観と言えば富士」。大観は明治35年頃初めて雲海の中の富士を見て感動。富士山を買い取ろうとして止められたというエピソードがあるほど。「富士を描くことは自分の心を写すことだ」と言っています。

★《風粛々兮易水寒》昭和30年(1955)名都美術館蔵(87歳)

f:id:akikasugai:20180714102808j:plain「風粛々として易水寒し、・・・・壮士ひとたび去ってまた還らず」と続きます。足を踏ん張って再び帰ることのない壮士(天心)を見送る悲愁の犬(大観)。

一時代の終わりを告げる画壇との決別を意味しているそうです。

大観の院展への出品はこれが最後です。

 

大観はこの2年後89歳で亡くなりました。