読書 磯田道史著『無私の日本人』文春文庫 2015年出版

以前内村鑑三著『代表的日本人』を読んだとき4人の日本人(西郷隆盛上杉鷹山中江兆民二宮金次郎)の共通項が「無私」だった。

司馬遼太郎氏二世と呼ばれる磯田さんが無私の日本人として選んだ3人(穀田屋十三郎、中根東理、大田垣蓮月)はどのような人たちだろうとがぜん興味を持った。

要約 

第1章

穀田屋十三郎(映画化 題名「殿、 利息でござる!」)

1766年(明和3年)の仙台藩領内の宿場町・吉岡宿。財政難のため民衆に重税を課す仙台藩では、破産や夜逃げが相次いでいた。寂れ果てた宿場町の吉岡宿でも年貢の取り立てや労役で人々が困窮し、造り酒屋を営む穀田屋十三郎は、町の行く末を案じていた。そんなある日、十三郎は、町一番の知恵者である茶師・菅原屋篤平治から、藩に大金を貸し付けて利息を巻き上げるという、宿場復興のための秘策を打ち明けられる。計画が明るみになれば打ち首は免れないが、それでも十三郎と仲間たちは、町を守るために私財を投げ打ち、計画を進める。有志を募り、合わせて9名で足かけ8年にわたり、小銭を貯めた。その後、仙台藩に貸し付けることに成功した1773年頃から毎年その利子を受け取り、宿場のすべての人々に配分した。

 

第2章

中根東理(なかねとうり)(元禄7年(1694年)~明和2年(1765年))は、江戸時代中期の儒学者

日本一の儒者、日本一の詩文家と云われた人。一切の栄達を望まなかったため引く手あまたにも拘わらず仕官しようとせず、一生を極貧に甘んじた。

村民の造ってくれた小さな茅葺きの庵に住み、そこで細々と塾を開き、村人に万巻の書から掴んだ人間の道を平易に語り続けた。

稀有絶無の詩才とのちに呼ばれたのはわずかに残された遺稿によるもの。

 

第3章

大田垣蓮月寛政3年(1791年)~明治8年(1875年)は江戸時代後期の尼僧・歌人陶芸家

津藩・藤堂家の高貴な血を引きながら数奇の運命をたどった江戸後期の絶世の美人。

2度の結婚で二人の夫、4人の子供に死別し出家した。歌人として名を成すと同時に自作の焼き物に自詠の和歌を釘彫りする「蓮月流」を創始した。

飢饉には私財を投げ打って貧者を助け、人々の便利のために加茂川に橋を架けるなど慈善事業に勤しんだ。

文中より 「自分というものにこだわるから、そんな小さなことに悩み苦しむのではないかと考え始めた。自分などは、とるに足らない小さいものだ。自分の名誉を護るなどという心を一切ふり捨てて生きればつまらないことで苦しまなくてすむのではないか。「自他平等の修行」心に自分と他人の差別をなくする修行を生涯続けることではないか。」

美しく、高貴な家に生まれながら、辛いことがあっても力強く生きていく術を見つけたこと!やはり「無私」であることが大切なのでしょうか。

 

 内村鑑三さんが選んだ代表的日本人は日本を動かす力を持っていた人たちですが、

磯田道史さんのほうは名もなき一庶民です。

無私の日本人は、探せば現在の私たち一般庶民の中にもいるような気がし、身近に感じました。無名の普通の江戸人に宿っていた深い哲学が今、日本人の誇るべき、そして近年忘れられていそうな美徳でしょう。

質素倹約、勤勉と無私を改めて思い起こしました。