2023年4月 親鸞聖人生誕850年 特別展「親鸞 生涯と名宝」展に行ってきました~(^^♪

鎌倉時代浄土真宗を開いた親鸞聖人(1173―1262)は、2023年に生誕850年の節目を迎えます。

浄土真宗(東西両本願寺)の信者数が、文化庁のまとめによると1500万人を超え、日本で最多であるとのこと。

その親鸞の生涯を紹介する展覧会が京都国立博物館で開かれています。(5月21日まで)

少し前小説・五木寛之著『親鸞』を読んでいましたので興味深くて、行って見たくなりました。

 

この展覧会には、親鸞ゆかりの名宝約170件のうち国宝11件、重要文化財約70件が展示されています。展示品は文書が多く、残念ながら少ししか読めないので、自分なりに理解出来そうなことをまとめてみました。

 

親鸞の生涯(要約)

親鸞は京都で生まれ、9歳で出家して比叡山で修行。

29歳で山を下り、法然上人の弟子となる。

35歳の時、法然教団は弾圧を受け、親鸞も越後(新潟県上越市)に流罪になるなど苦難の時期を経て、関東で長く布教に励む。

やがて60歳ころ京都に戻り、晩年まで主著『教行信証』や「和讃」、門弟たちへの手紙類など、多くの著作の執筆や推敲を重ねる。

90歳、京都で亡くなる。

 

親鸞の主な重大出来事

1:親鸞は29歳の時に比叡山を下り、聖徳太子の創建と伝わる六角堂へ100日間参籠し、聖徳太子の本来の姿である救世観音より夢告を受けました。

★重文 聖徳太子立像(孝養像)鎌倉時代(14世紀)茨城県・善重寺蔵 鎌倉時代の色彩を今に伝える太子像。

 

★重文 本願寺聖人伝絵(康永本)上巻(部分)親鸞が六角堂にこもって修行しているところ。三十三回忌にひ孫の覚如親鸞の一生を絵巻物にした。

 

恵信尼書状類」には、親鸞の没後に、妻の恵信尼が娘の覚信尼に宛てた手紙の中で、親鸞比叡山で堂僧を勤めていたことや、六角堂へ参籠し95日目の明け方に救世観音より夢告を受け、そのお告げがきっかけで、法然の弟子になったことなどが記載されています。法然勢至菩薩親鸞観音菩薩というお告げだったとのことです。

★重文 恵信尼書状(部分)恵信尼筆 京都西本願寺蔵 (妻がつづる在りし日の親鸞

 

2:29歳 法然上人の弟子となり念仏の教えに出会う。

★重文 快慶作「阿弥陀如来立像」鎌倉時代(1221)奈良・光林寺蔵 親鸞と同時代に造られた快慶最晩年の優品

 

「すべての人は等しく救われる」。ただ「南無阿弥陀仏」(阿弥陀仏にお任せする)と唱えるだけで浄土に行くことが出来る、という教えを広める。

重要文化財 歎異抄 巻上下(部分) 蓮如筆 室町時代(15世紀)京都 西本願寺 今残っている写本の中で最古のもの

親鸞といえば「歎異抄」。親鸞が語った言葉とその解説が書かれています。親鸞の教えを曲解するものが現れたことを嘆いた門弟によって書かれました。「善人なをもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」「親鸞は弟子の一人ももたずさふらう」などの有名な親鸞の言葉と、異義に対する批判を記しています。

今回の展示は蓮如が書き写した現存最古の写本です。末尾には他の写本では見られない流罪の記録もあります。

また親鸞は「弟子一人ももたずさふらう」と記されていますが、実際は多くの人々が帰依しています。親鸞は弟子とは思わず、仲間と考えていたのかもしれません。

昭和を代表する司馬遼太郎さんは「無人島に1冊の本を持っていくとしたら『歎異抄』だという有名な言葉がありますね。

 

3:35歳 罪人となり法然親鸞など流罪になる。その教えに反対する朝廷や教団などに批判を受け弾圧を受ける。

旧来からある「念仏」は常行三昧、不断念仏として守られてきた。死にもの狂いの修業が必要という考えなのです。しかし法然上人によって「口に出して念仏を唱えれば浄土に往生できる」との教えは受け入られず、弾圧の対象になったのです。その教えの後継者である親鸞は「専修念仏」の教えを広めたゆえに罪人となりました。

39歳で罪を許されるが関東で専修念仏の教えを広める。

 

4:52歳ころ、『教行信証』の執筆がほぼ完成。

親鸞筆 国宝『教行信証』(坂東本)鎌倉時代(13世紀)京都東本願寺

親鸞が自分の考えをまとめてあらわした本。自筆の文字はおおらかで、謙虚な人柄を表すように、読みやすく一文字一文字が大きく書かれているように感じました。人々に寄り添うような文章なのでしょう。読めないのが残念です。墨や朱で推敲した跡がびっしり。親鸞が亡くなるまで手直しした跡が見られます。弟子たちによって写され、受け継がれ、浄土真宗にとって最も大切な根本聖典となりました。

 

5:84歳親子の縁を切る

重要文化財 善鸞義絶状 顕智筆 鎌倉時代 嘉元3年(1305)三重 専修寺

関東で教えを曲解するものが現れたため、息子の善鸞(ぜんらん)を派遣し事態の収拾を図りますが、その善鸞が誤った教えを説いていることが発覚。84歳にして親子の縁を切ることになりました。それを門弟に周知したのが「善鸞義絶状」です。「あさまし」「かなしき」「こころうき」など親鸞の心情を表す悲痛な言葉がならびます。

 

その他の名宝の数々

親鸞聖人坐像(83歳の姿) 南北朝時代(14世紀)三重県専修寺蔵 高さ30cmくらいの小さいお像ですが、リアルで迫力があり、威厳あふれる親鸞

 

★国宝 親鸞聖人影像(安城御影副本)(部分)(賛・裏書)蓮如筆 室町時代(15世紀)京都・西本願寺蔵 (83歳の風貌)

 

★国宝 三十六人家集(忠見集)平安時代(12世紀)京都・西本願寺蔵 

平安貴族の美意識の結集

 

★「櫻花図」(松・藤花図のうち) 望月玉東筆 京都・東本願寺

東本願寺御影堂の大衝立

 

★重文 本願寺聖人伝絵(康永本)巻下末 往生の場面(部分)(詞書)覚如筆(絵)宗舜筆 親鸞没後三十三回忌に制作された『親鸞伝絵』

浄土真宗は大きく発展し数多くの名宝が伝来します。親鸞の教えは宗派の枠を超え多くの人々に影響を与えました。