江戸時代の浮世絵師「葛飾北斎」の生涯を描いた作品を見てきました。
北斎(1760-1849)と言えば知っているようでもほんの一部、その長い人生のすべてはわからないことが多く謎が多いのです。
アメリカ『LIFE』誌で「この1000年、世界でもっとも偉大な功績を残した100人」で、アインシュタインやシェイクスピア、レオナルド・ダ・ヴィンチなどとともに日本人としてはただ一人選ばれた人ですね。
ところが北斎は平民生まれなので記録はほとんど残っていず、知られている事柄、例えば引っ越しを一年に90回?散らかったら引っ越すという、掃除が苦手らしいことや画号を生涯に30回変えたことなど、作品を通してわかる史実をもとにオリジナルストーリーを見事に企画・脚本を書き上げたのは作家の河原れん。
監督は橋本一。
青年期を柳楽優弥(やぎら ゆうや)、老年期を田中泯が演じています。
お二人ともすごい迫力で素晴らしい演技力!
このページでは映画では、あまりに長い生涯だったため、描ききれなかったとおぼしきことをほんの少し書いてみたいと思います。
とても分かりやすい映画です。厳しい財政難のこの時代の背景も絵師、版元などに大いに関係しています。詳しいことは映画で~。
予告編葛飾北斎の壮絶な人生描く『HOKUSAI』新予告編 柳楽優弥&田中泯が熱演!|シネマトゥデイ (cinematoday.jp)
★若いころ無名で、売れない絵師時代。
北斎のすごさは、その売れない間、ありとあらゆる画風を学んでいることだと思います。例えば長い歴史を誇る狩野派(幕府お抱え絵師)、土佐派(宮中絵所預かり)、琳派(尾形光琳など)、中国画(水墨画など)、西洋画(遠近法)など、なかなか真似できないことでしょう。
★1807年北斎47歳の時、初めて画号を「葛飾北斎」とする。
★1814年(54歳)『北斎漫画』初編を名古屋の永楽屋で出版。死後の明治時代まで版を重ね、全15編すべてを出版しています。北斎は弟子が多く、しかも自分の仕事も忙しく、ゆえにこの絵手本は弟子のために描かれたものです。
ヨーロッパに北斎が知られ、伝わったのは19世紀後半、梱包材としてお茶碗などを包んだ紙に使用されたことがきっかけとか。
★60代後半脳卒中で右手に後遺症が残ったのです。映画では「それでも創作意欲が衰えることがなかった」と通り過ぎていますが、私の知るところによると「ゆず」を酒で煮詰めて毎日食べ続け筆を持てるようになったとか。そのレシピが残っています。
ゆずの薬
材料 極上の酒 1号、ゆず 1個
作り方 柚子を細かく刻み、土鍋で静かに水飴状まで煮詰める。白湯で薄めて24時間から36時間くらいの間には飲み切る。
自分の力で筆が持てるまでに回復させたその意欲はすさまじい。
★1831年~33年頃、70歳を過ぎ「富嶽三十六景」が空前のヒット。「北斎ブルー」と呼ばれるプルシアンブルー(紺青)を全作に使用。
ちなみに日本で初めてプルシアンブルーを使った人はかの有名な伊藤若冲《動植綵絵》のうち「群魚図」左下の「ルリハタ」の胴と鰭だそうです。
★1844年(84歳)
たくさんの肉筆画を残しました。映画の中で《怒濤図(どとうず)》(1845年)を描くシーンが見られます。祭り屋台の天井画として描かれました。
北斎は波をテーマに40代頃から描き続けました。70代で《神奈川沖浪裏》
80代で《怒涛図》に到っています。
女浪 男浪
★1849年(享年90歳)
浅草の遍照院長屋で死去。お墓は浅草の誓教寺。
平均寿命40歳~50歳の時代、90歳まで長生きしました。亡くなるとき「あと10年、いや5年あれば本当の絵師になれた」とメッセージを言い遺しました。
この言葉から北斎は、自分を天才と思っていない。苦心して苦しみながら自分の絵の世界を極めていった人だったのです。